九月七日 (雑記)

恐らく彼は或る程度のところまで来ている。或る階梯の或るところまで。それ故に彼は言うのだ。彼は自分のいずれ辿り着く場所をぼんやりと意識し始めていた。彼は言う。

「確かに金は必要なものではあるでしょう。でも世の中には、金に眼の色変える輩というのがごまんといるんです。それが分からない。いや、分かるけど、おれには彼らの気持ちが本当に解ったためしがない。たぶんかつて一度もないのでしょう。金儲けのために躍起になる人々、或る人はそのために道を踏み外しさえする。彼はそれで何を得るのか?    彼がものの価値を知っている人間とは到底思われません。そうでしょう?    おれの彼らを理解しようという試みは大昔に失敗に終わりました。何だろう、諦めの数が多すぎて、それでも絶望はしていない自分が不思議に思えます」

根源。生命の、宇宙の、自分自身の。それを見極めることは至難の業で、彼にはまだよく分からない。人生などはちっぽけなもの、何ほどのものでもない。そのことならば知っている。

彼女のほうも、そのことならば知っている。彼女のほうがずっと単純な分、或る意味で彼よりも悟った場所にいるだろう。

「みんな死ぬ。そういうシステム」

彼方は途上の前方にある。そう彼が日記帳にしたためたのは、今年五月のこと、その時彼は眠かった。そのことを記憶している。

「みんな死ぬ。そういうシステム」

当時の彼の(おれの)日記を引用しておこう。

 

〝彼方は途上の前方にある。後方にあるのはきっと恥と過ちと誰もいない教室ばかりだ。教室?    懐かしい顔と声とはすでにそこにはいないのだから。もう一度会いたい人。未来永劫好きじゃない人。彼方、途上、今。流れるよりももう少し着実な歩行なのである。だが運命は人間の手中になどない。ない〟

 

                                                      (澁澤政裕)

前入院した時もそうだったけど、気ままに書き散らしたくなる。もうすぐ退院だけど。

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その時間 , poem

「眠れない。ねえ、何かしよ」

「魚釣り」

「ん?    無理じゃん」

「気分だよ、大事なことは。魚釣りをしている気分」

ベッドは二つ、そこはどこかの寝室である。マンションの貸し部屋か、一軒家の二階か、ともかく二人の眠るベッドのある寝室。木材の床と薄桃色の壁紙、しかし掛け布団の色は渋めの色だ。二つのベッドのあいだにシェードのある照明器具。これが部屋を薄ぼんやりと明るませている。

二人の女の子。二人共にまだ十代だろう。

「ここでは難しい。魚釣りと繫がる要素がない」

「眼を瞑るの」

「えー」

「眼を瞑って」

「分かった」

「ここは海。ちいさなボート。風はないけど少しだけ波がある。波間に揺られるボートにいるの。釣り竿を垂れている。でも何も起こらない。それだけを考えて。いい?」

「分かった」

黙って眼を瞑っている、二人共に、しばしのあいだ。

眼をあけたのは、眼を瞑るよう促していたほうの子だ。

彼女が彼女の様子をそっと窺い見る。

身じろぎしない、彼女の顔は穏やかな寝顔に見える。

が、眼はあけずにふいに声だけで応える。

「寝てないよ」

「だよね」

「音楽聴こ」

ヨハン・セバスチャン・バッハ

「別の」

そして彼女は照明を消し、暗闇に別の音楽を流す。

ビートルズ

 

 

                         ⏳∬⌛

                                                      (澁澤政裕)

初稿。例のごとく。時間を置いて直したい。

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虚ろ(散文詩)第一稿

それは愛についての一つの意見書のようなもの。画質は粗い。男は肥っていて、裸で、黒のブリーフとやはり黒のマスクだけを身に着けている。レスラーの被るような目出し帽のような頭部全体を覆い隠すラバー製のマスク。女は恐らくは〝売り〟をしている。恐らくは三十代、小皺と雀斑(そばかす)のあるその顔はしかしもっと遥かに幼く見える。射精。女がどこに触ったわけでもないのに、しかも男はブリーフを着けているはずなのに、白濁したそれが確かに放射状に飛散した。女の右の頬と口許の辺り眼がけて。手法はスローモーションで効果は何か沈黙と似ている。それだけだ。ピントはもうどこにも合わず、明確に把握できるものはもう何一つない。穴のような沈黙。そこでこの残像的フィルムは終わっている。愛についての一つの意見書のようなもの?    だが、何の?    分からないけど陥没した場所があるのだ。

 

 

                                                      (澁澤政裕)

初稿。例のごとく。時間を置いて直し。

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散文詩 〝身元〟 第一稿

かわたれ時。ほの灯りの時刻。人けのないビル街に、思いがけないところから一人の人が現れる。マンホールの中から、マンホールの蓋を下からこじ開け、地上へ上り、現れる。一人、続いてもう一人、続いてさらにもう一人。あとからあとから延々と続いて人が現れる。マンホールの中から。男もいれば女もいる。老人もいれば若者もいる。みな汚水にまみれており、しかし迷いのない様子で思い思いの方向へ歩き去っていく。自分の人生の続きの分を暮らしにゆくのだ。魂。これはいつしか具象化されて磨かれて光沢を湛えた水晶玉のようになった。しかし魂は霊魂である。もっと曖昧模糊としてそして自在のものであるはずだ。ショーウインドーの中からことの全てを見守っているのはマネキンではなく牙のある天使である。黒衣の天使。或いはこれは堕天使かもしれないが、家具とキッチンのあるショーウインドーの中から見守るその瞳の中に、微かな笑みの面影がある。そして人々はみな歩き去った。マンホールの蓋は開けられたまま、人けのないビル街、それが蘇り取り残された。天使の姿も今はない。そこにあるのは一脚の椅子である。椅子の上には、磨かれて光沢のある水晶玉。

 

人生。

 

 

                                                      (澁澤政裕)

初稿。時間を置いて直しを入れたい。

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九月四、五日 (日記)

ここに流れる時間には独特の緩慢さがある。前回入院した時もそうだった。退屈はしていない。しかし時の経つのが何やら遅い。今回入院したのはいつのことだったか?    八月二十六日。そうして今日は九月四日だ。わずか九日。しかし入院した日のことがもう少し以前のことに、少なくとも二週間は以前のことに思える。時の流れが緩慢で、従って一日一日の重量が幾分重め。良いことだろう、たぶんだけれど。酒など飲んでいるとこうはいかない。殊に一人で飲んでいると時間はたちどころに過ぎ去る。誰に対しても気を使わずに飲む酒。それだから一人で飲むのは愉快だということにもなるのだけれど、しかし人生は有限である。延々と一人ちびちびやることを〝行動〟と見なすのはいささかというか明らかに無理がある。例えそのあいだに様々な考えごとをし、自分にとって無為とは決して見なし得ない時間を過ごしているとしてもだ。再入院は厄介きわまる諸々の事情のため(三十過ぎてから統合失調症に罹患したが、それが今回悪化した背景には現実の悪質執拗なストーカー被害がある)、しかしここで過ごした時間には、負の側面ばかりではない豊かなものが確かにあった。そのことは以前公開した幾つかの随筆にも書いた通り。少し迷いが生じている。もしかしたら、もう少しここで過ごしていたいのかもしれない。夜明け。おれはここでは、夜明けのような明るみを見る。そして緩慢に流れる時間の中で、自らと対話し、自らを聴き、自分自身を再びそこに見いだし、また他者と出会い対話して、いずれ何らかのかたちで実りともなる一箇の季節を過ごしている。十代をこの街で過ごした。好きな場所は今ではここだけだ。

 

                             ●

 

「靴紐がほどけてる」

「知ってる。何日か前からこうだよ」

「結ばないの?」

「さあ。気にしたことがない」

「結びなよ。気になる」

「別に気にならないよ」

「私のほうが気になるの」

「分かった。結ぶよ」

「よし」

そして時間は更けていった。

「待っている。でも、何を?」

「知らない。靴紐がほどけてる。また」

「結ぶよ」

「秋」

「え?」

「あなたが待っているもの。秋」

「かもね…… 分からないよ」

 

                              ●

 

すでに九月。二〇二四年、今年の夏の大半をこの病院で過ごした。名残惜しい、確かに。意義のある夏だったのだろう。

 

 

                                                      (澁澤政裕)

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poem, 足跡(そくせき)第一稿

〝主よ。汝……〟

 

台風の目

つまり平和と黙考の中心地点

〝病院〟は

そこに曖昧に浮遊している。

狂人たちを収容しながら何故か唯一正気を保ち

これはどういう不条理だろう

常人たちの暮らす周辺区域のほうが気ちがいじみた混沌の渦中にあって

我を忘れ

道理を忘れた狂騒のうちに自ら向かいそこへ埋没

段階的な正確な歩みを伴いながら着々と滅びゆくのだ。

 

私たちは時として忘れてしまっている。

多くの人の歩行はむしろ退化へと向かうということを。

そうしてその人たちの魂もまた

最初のうちは麗しく磨かれていたことを。

 

そしてとうとう〝病院〟は計り知れない何らかの意志によって

隔離聖別された。

だがそれが狂人たちに何の関わりがあるだろう。

彼らは今日も自らを生きることに忙しいのだ。

ただ一人

何か祈りを捧げた者があったが

この人は何を願っていたのだろう。

当人にもそれが何かはよくは分かっていなかった。

 

月と太陽とは今も運行している。

破綻は最小限でひとまずは許された。

そのように捉えれば希望はまだ廃れてはいない。

 

〝主よ(しかし私は神など余り信じない)

主よ。汝の愛を、いまひとかけら〟

 

 

                                                      (澁澤政裕)

初稿。時間を置いて直しを入れたい。

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五月十四 ~ 十五日 (日記抜粋)

◑●◑    西暦2024年。キリスト暦。

ルカ「言ってごらん、僕の何かを欲しがりながら君はそれをいつまでも言い出せずにいる。君が僕からぜひとも欲しいもの。愛かペニスか哲学か」

メフィスト「二つある。君の妻と君のペニスだ」

ルカ「欲張りなんだな。しかし一つは与えるとしよう」

    #ルカはメフィストを背後から貫いた。それは元来入り口でなく出口である穴に対する攻撃でもあったろう。メフィストは四つん這いになって何か呪文のようなものを唱えていた。

ルカ「ご不満だろうが僕の子種を君に与えるつもりはない。君の性別が不明だ」

メフィスト「何故」

ルカ「何故」

メフィスト「何故」

ルカ「何故」

メフィスト「下級の悪魔には使命がある。誰のことも孕ませること」

ルカ「だが僕は天使なんだよ。残念なことだ」

●○◑    西暦2024年。キリスト暦。

体内時計の回転速度が少し変わったと感じる。おれにはしばしばあることだ。

#2024年5月14日朝。色々と熟考したいと思えるがそれが難しいほどにいつも何かをしていたい。殊にいつも何かを書いていたいと感じる。理解できる人間は決して多くない。事実、おれの家族は昔も今もおれを知らない解らないままなのだ。

 

横断歩道。出逢った数の数百倍の人とただ単にすれ違っている。誰にしたって同じことだ。人と人とは繋がってなどはいない。出逢わない限り。出逢おうとしない限り。

ところで#野良猫の中には人が近づいても何の焦りも動揺もない堂々としたのがいる。人が近づいて来ても逃げる気配もない。ただ見ている。ちょっかいを出されても微妙な反応しか示さない。きっと色々と面倒なのだろう。分かる気がする。分かる気がしないだろうか。断っておくがおれは性的な場面において決してマグロというわけではない。だが面倒な時は面倒でしかないので出来うる限り何もしたくないのだ。猫→🐱

 

しゃて。現在有酸素運動をほとんどしていないのでむしろ酸素濃度が何か淡白である。空気は水の中では泡。おれは確かにいつか見ている。真冬の真夜中の片隅よりもさらに片隅の場所、しゃぼん珠の凍ったような硬質にして壊れやすい虹を宿した一つの泡の一瞬にして砕け散るのを。そこは水の中ではなかったが、或いは溺れそうなほど酸素濃度が低かった。或る人が言っていた。「あなただけ、二人だけで飲むのは。レイプしないのが分かるから」

                                   🌒

 

                                                      (澁澤政裕)

何を考えていたんでしょうね(笑)タイトル通り当時の日記の抜粋です。

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