● 黒味
全くの黒味と違う。捉えがたい微妙で緩慢な色味と明度の移り変わりのある生命(いのち)ある黒味。そこに女の独白が延々と被さる。
声「旅に出た。死に場所を探して。しかし私の死ぬ前に私の生涯をいまいちど私自身に向けて語って聞かせる必要がある。でないと死の直前、もしくは旅の途中で不意打ち的に襲われるとも限らない弛緩した一瞬に、そもそもこれは必要なことなのかなどと疑念が生じてしまう可能性がある。私はこの可能性を断固として斥けたい。せっかく重たい腰をあげたのだから、始めたことを終わりまできちんと完遂したいのだ。そういう性格だからそうしたい、私は。いつからこういう性格になったのか、たぶん物心ついた時にはすでにそうだったのだろう。小池智美、意外だろうか、そんな無個性に近い名前が私の名前だ。暗闇に射した一条の光に浮かび上がる一脚の椅子。私はそこで育まれた。たぶん生まれたのもそこだろう。暗闇に生まれ、暗闇に育った。昔も今も、野菜より肉のほうが好きである。例え野菜のほうが美しく見えたとしてもだ。小池智美、十四歳の時。何故ということもない。何か明確なきっかけがあったわけでもなければ、たぶん然したる理由さえ見つかりはしないだろう。その頃から現在に至るまで、私は黒い服しか着用していない。うっかり紺色の服は着たかもしれない。しかし基調はつねに黒である。つねに黒。暗闇に生まれ、暗闇に育った。人は馴染みのあるものに、心落ち着かすものである。三十歳。もしくは三十近くになったある日の真夜中、かつて通り魔殺人のあった朽ちかけた高架下で、私は或る人とすれ違っている。この人がたぶん私の運命の人。荒んだ闇を横切るそのつかのまに、互いが互いの存在を確かに認めた。そしてすれ違った。彼がその時どうしたのかは分からない。私は振り返らなかった。私は振り返ろうとしなかった。小池智美、四十歳、現在。何故死ぬ必要があるのか? むしろ何故これまで死のうと思わなかったのかと問うべきである。私は長く生き過ぎた。そう私が実感しているのだ。返らない歳月の中に闇と光の両方がある。その中間地点を探していた。闇と光の溶け合う場所を。そこで死ぬのだ。たった一人で死んでいく自分に胸を痛めつつ。その痛みは狂おしくも甘美なものであるだろう」
● 月夜の浜
月灯りを映した海の眺められる美しい浜。
黒い身なり(それはゴスロリのようにも見える)の女が来て、座る。
しばし静かに海を眺めているが、ふと口笛を吹こうとする。
控えめに、だがよく響く金色の音で。
● 月夜の海に口笛が鳴りつづける。
(澁澤政裕)
初稿。時間を置いて直したいですね。
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